DNA
大工だったお祖父さんのバイクの背に乗せられて、「よく建築現場に行っていた。」という子供時代。
父も大工、小澤家のDNAは彼も建築の道へと歩ませた。
柔道一直線
柔道が強かった頃の辰野町。彼も畳に汗を流す少年だった。
辰野中学から辰野高校へ、柔道一直線。
今でもわかる頑丈そうなその体格からは、当時どれほど柔道に情熱を傾けたかが伺い知れる。
芯が強そうな反面、彼の性格はむしろ控え目で、語り口調も穏やなタイプだ。
「信用建設」のスタート
いよいよ建築の道を歩み始めた小澤青年。
東京の専門学校で建築を学んでいた在学中、実家では大きな転機を迎える。
「小沢建築工業」を営んでいた実家の父は総合建設業へと大きく舵を切った。
現在の社名「信用建設」(当時は有限会社)のスタートだ。
その頃はバブル期全盛の日本列島、公共事業で儲かった時代だ。
会社の成長を目指すにはごく当たり前のステップアップ、事業展開だったに違いない。
各市町村と同じく、辰野町でも上下水道工事が全盛期に突入していった。時代の要請でもあった。
卒業を機に彼は地元へ戻り、家業の信用建設へと就職する。
人間「小澤 等」
実家の会社に入ってからは一級建築士の資格も取得した。
彼自身にも、会社にとっても大きな財産となったこの資格により、後には「信用建設一級建築士事務所」も名称に加わった。
地域への貢献も非の打ちどころがなかったように思える。
消防団は分団長まで勤め上げた。これは地域でいかに彼が信用され、面倒見が良かったかの証だ。
地元の人の就職の面倒も見た。酒を驕り、自身もまた飲んだ。
この時代が「誰かのために」という彼の人格を形成したのではないかと思えてならない。
再び言うが、それでも彼は“土建屋の親分”という性格肌ではない。
20年近くが流れ、経験を積んだ彼はいよいよ信用建設の社長に就く時が来る。
今思えばまだ40歳前、30代での若き青年社長の誕生だったが、
当時の青年会議所の仲間などからは、こんな助言も受けた。
「君は親父さんとは違う。いっその事、社名も変更したらどうか。」
社是「信用」
信用建設の社是は、社名そのものである。
社名こそがこの会社のミッションなのだ。
社長は言う、「『信用』という言葉は重い…。」
だから社名は継続し、入札の関係で「株式会社」へと組織変更だけをした。
住まいのコンビニ
「住まいのコンビニを目指したい!」これは社長のぶれないベクトルである。
“一本背負い”にこだわる柔道家・古賀稔彦のようなものだ。
「信用建設は、地域の人たちの土木・建築のコンビニエンスストアでありたい。」と言う彼は、
消防団の分団長の頃と同じ精神のままである。
「地域のために、人のために、気軽に便利に頼めるように、建築・土木のことなら自分が役に立てる。」という発想なのだ。
時代を危惧
「この30年で時代は大きく変化しました。公共工事全盛の時代が終わり、今では民間の土木工事や建築・リフォームといった仕事の方が多くなりました。」
さぞかし建設会社は大変だろうと水を向けると、上記のような答え。
民間の仕事だけでもきちんと仕事はあるそうだ。正直、以外に思えた。
確かに誰でも家の周りで頼みたいことは結構ある。
でも、ちょっとの事では頼みづらいのが土木・建築の分野だ。
おそらく地元の人は信用建設には気兼ねなく物事を頼みやすいのではないだろうか?
まさにコンビニエンスである。
「仕事はあるんだけど、ただ…。」言葉が急に詰まる。
これは大変な問題である。
職人がいない
筆者は不景気ゆえに、職人が溢れているのかと思っていた。
事情は大きく違うらしい。
「腕に覚えのある者は好景気の東北や東京へ出てしまっている。
地元の従事者は深刻な高齢化で思うように働けない。
きつく、汚く、危険な3Kと言われるこの業界に若者がいなくなってしまった。」そうなのだ。
「仕事はあるんだけど、ただ…職人が集まらない。
あと10年〜15年後には、田舎には土木・建築の担い手がいなくなってしまうんだよ…。」
あまりにも大きな社会問題のために、沈黙してしまう。
「どうなっていくんだろうねえ。」
建設会社や工務店は今後淘汰されていくだろう。残念だがこれは必然の流れだ。
でも信用建設が「信用」を掲げる以上、さらに「住まいのコンビニエンス」を目指す以上は彼を知る地元や口利きからの仕事は途絶えることはないだろう。