お客様満足度を高めるための挑戦
「お客様はどの位満足しているのだろう?」安井社長は、常にお客様の満足度を気にしていると言う。
ヤスイ機工のメイン事業は中古木工機械の販売である。中古機械だからといって、作られる製品の精度が悪いことは当然許されない。しかも納品した機械が直ぐに壊れては困る。だからヤスイ機工の中古機械は徹底的に整備を行うという。しかも社長自身で整備する。「自分で整備することによって、納品した機械の事を覚えている。」のだそうで、故障が起きたとしても原因がわかるという。
「機械一台一台をできるだけ新品に近い状態に仕上げ、自分で納得のいく状態で納品する。」お客様満足度を高めるためには、自らにも高いプレッシャーを課し、挑戦を続ける日々だそうだ。
伊那市から全国区へ
木工機械の中古マーケットは特殊な分野だ。顧客は住宅メーカー・建設会社・工務店・製材会社・建具屋さん・家具屋さんの製材工場、木工工場など。我々の近所を見回してみても、そういった工場は案外と多いことに気付く。しかし、機械が必要な時でも全てを新品で購入するわけではないだろうし、中古機械で十分の場合だってあるだろう。そこが、ヤスイ機工が活躍できる土俵である。
十数年前までは、中古機械はその地域ごとで融通し合っていたにすぎなかったが、インターネットの時代になってからは全国がマーケットとなり流通範囲が広まった。そこにいち早く、インターネットを武器にして全国区へ躍り出たのが”ヤスイ機工”であり、業界で一目置かれる存在となった理由である。
信頼される理由
「中古は中古」と割り切っていて、引き上げた機械を直接工場に運び込んですぐ稼働させてしまう地域や業者もあると言う。
「自分はそれじゃ嫌だ!」と思うのが安井社長の信念だ。「中古機械だって、新品同様の加工精度が求められる」し、「既に決まっている仕事があるから機械を購入してくれる」わけだ。だから「使い始めてすぐに壊れた…」などと言うのは許されないと考えている。「出来るだけの事はして、可能な限り新品に戻したい。」のだそうだ。
きれいなことは当然で、機械は掃除をして塗装する。メンテは十分な時間をかけて行う。必要な部品交換も行う。汎用機械は創業者の父が行い、NC付などの特殊機械は安井社長が担当する。2世代に渡る経験がここに生きている。隅々までそうしたメンテナンス整備をするから、その機械のことを知り、そして覚えるのだという。
「機械なので壊れることや、調子が悪いこともあるのですが、その機械を覚えているので遠隔でも電話やLINE、時にはFaceTimeを使ったテレビ電話方式でアドバイスをすれば大抵は直ります。」と抜かりない。このあたりの信用と信頼が口コミとなり、ヤスイ機工の名は業界でも確固たるものになったのだろう。
華々しい世界での修行時代
ヤスイ機工は昭和56年に父が創業した。今の様にホームセンターなどは無かった時代である。職人達は早朝から来店して、釘を始めとする仕事の道具一式を受け取ってから現場へ出向いていた。夕方には工具の修理や注文依頼を受ける。夜間は工具の修理を行い、翌日の早朝には職人へ渡せるようにしていたので忙しかった。
安井社長の職歴は、池袋の業界トップクラスの機械メーカーへ就職した事から始まる。営業とアフターメンテナンス業務をこなしながら6年間を勤めた。当時の機械メーカーは、実家が機械商社や工具店の2代目達の修行先としての側面もあったようだ。就職当時は家業を継ぐことは考えていなかった安井社長だが、仲間が徐々に実家の家業へと転身していくのを見て刺激を受けた。「いつかは俺も!」という気持ちが膨らむにつれ、「家業を継ぐとして、自分に足りないものは何か?」を自問したところ、今までの営業経験に”技術者”としての一面を学ぶ必要性を感じた。
そこで彼は、会社に転職の許しを得た後に機械商社へ転職をした。希望に叶う「大手ハウスメーカーの機械設備を担当する技術職」だった。大手ハウスメーカーの工場に付きっきりで”機械設備の設置とメンテナンス”を2年間行った。
業界トップクラスのメーカーでの”営業経験”と、大手ハウスメーカーの工場での”技術経験”。この期間を”修行”期間と彼は呼ぶ。自信と誇りを胸に、平成9年に長野県伊那市に帰郷し家業のヤスイ機工に入った。
2代目の苦悩とチャレンジ
家に戻ったものの、時代は大きく変化していた。
巨大なホームセンターが乱立し、顧客である職人の多くが店から離れていた。そして親も高齢になっていた。就職して以来、業界の中心に身を置き、産業のトップで仕事をしてきた者にとってその落差には愕然とした。あまりの将来性の無さに、せっかく積み上げてきた修行経験もここでは活かせないと思った。しかし今日を生きなくてはならない。
「今日出来ることを、日当を稼がなくては…。」バンに店の商品を積みこんでは、職人の施工現場を回りに回った。そして同時に、”ホームページ”に活路はないかと思い始めた。
当時はまだ、「ホームページってオタクの趣味」的な認識で、会社で使うものとは思われず馬鹿にされていた。草創期に作ってもらったホームページは出来も悪く、全く上手くいかなかったものの、それでも可能性には大きく関心があった。引き取った機械を整備して置いていても、地元で売れるには5年〜10年の長期間に及ぶこともある。「中古機械をホームページで売ったらどうだろう?」とは心の中に抱いていた。ちらほら、そんな試みをする会社も現れ始めていた。そんなタイミングで、懇意にしてくれているお客さんから「ホームページでモノを売ったらどうだ?」と提案された。制作会社も同時に紹介してもらった。
結論から言えば、このいち早いホームページの取り組みで「ヤスイ機工」の名が売れた。県外に知れ渡ることとなり、業界では一目置かれるようになったのである。ヤスイ機工のホームページは安井社長自身で更新できるように作られたため、中古機械の台数も多く載っていて、充実していたのも勝因だった。
恵まれたという気持ち
”ヤスイ機工の中古機械”を購入してくれるお客さんは、北は北海道・網走〜そして西は鹿児島、沖縄まで。国内にとどまらず海外はマレーシア、中国、フィリピンのアジア各国。北米はカナダにまで及ぶ。
世界への営業展開は、「修行してきた事がようやく活かされるようになって、やりがいがある!」と言う。「先手を押さえて上手く時流を捕まえましたね?」との問いかけに、以外にも「巡り合わせに恵まれていたのだ。」との答えが返ってきた。
インターネットに力を入れたいと考えていた時に、紹介してもらった制作会社では、自分で商品をアップできるようにホームページを作ってくれた。
ホームページに力を入れろ!と背中を押してしてくれたお客さんもちょうどインターネットに集中していた時期で、ヤスイ機工のホームページを「早く更新しろ!」と頻繁に指摘をしてくるので、追い立てられながら一生懸命できた。伊那JC(青年会議所)に入っていた時期でもあり、周りの仲間には本業でも負けたくないという強い思いがホームページへの原動力になった。
それらの環境に恵まれて幸運にもホームページで優位に立てた結果、全国区で知られることになったと言う。「良い境遇に恵まれた。」と謙虚だ。
業界の発展に尽くしたい
今、地域の消防団の部長を引き受けているそうだ。それは地域住民から頼りにされている証拠で、安井社長は頼りにされると応えたくなる性格なのだと思う。同じことが仕事でも伺えるのだ。インターネットでヤスイ機工の名が知れ渡ったことから、今では相談ごとも全国から受けるようになった。「こんな機械を探してほしい」、「こんなものを作りたいけど、それができる機械はないか?」といった内容を寄せられる。お客様から頼られる存在になっているのだ。
同業者や仕入業者からは仕入れた機械の情報を真っ先に教えてくれる。メーカーからは新製品の案内や情報を真っ先に教えてくれる。いずれもヤスイ機工にはお客様からの情報収集能力と、そして販売力があるから頼りにされているのだ。
「お客さんと業者の双方から頼りにされている間は、出来る限り期待に応えて、業界の発展に尽くしたい。」と安井社長は言う。「お客様の要望を常に汲み取っていたいと思うし、それはメーカーにも伝えたい。」そして「ヤスイ機工は常に在庫を置いて素早い対応ができるように今以上に工場も増やしたいと思う一方で、信用できる仲間との機械ネットワークも今以上に多く結んで機械を融通し合いたいと考えている。」そうだ。
先ずはお客様に発展してほしい。その為には業界全体を通した”力の結集が大切”だ。そうすることで業界全体も発展をしていく。そんな業界の姿を安井社長は望んでいる。
text/ Photo Kobayashi