鉄鋼・建材の営業からスタート
高校を卒業後、建材商社の営業マンとして社会人をスタートした。
県内外を勤務した後、東京勤務となっていたが、長男だったことから40歳を前にし、家を継ぐために地元の長野県にUターンをした。
グループ内企業である長野県内の建設会社に就職した。
原点
建設会社の営業担当になったのだが、営業と言っても当時は役所へ通っての名刺配り。
そんな仕事では持ち前の行動力は活かされるはずもない。
宅建取引主任者の資格を持っていた彼は、業際事業として「不動産開発部門を作らせて下さい!」と会社に願い出た。
後に「あるぷす不動産」を起業する原点はここかもしれない。
住宅事業部
不動産開発部門を創設して、さらに住宅事業部に発展。
業務も宅地開発と分譲、住宅建設などを手掛けた。
今でこそ長野県の住宅では寒冷地仕様の家づくりが基本であるが、昭和60年頃の当時はそんな発想はまだなかった。
思い起こせば、当時の家といえば断熱材はあまり入っておらず、冬は寒いのが当たり前だった。サッシはガラス一枚で結露もひどく、窓際はいつも濡れていた。水道管は頻繁に凍ったものだ。
住宅事業部では寒冷地仕様の住宅建設に取り組み、今では当たり前となった高気密・高断熱の家づくりを積極的に推進した。
そしてとうとう、100人もの社員を抱える会社の常務になった。
起業「あるぷす不動産」
建設会社では専務まで昇進した。退職後は住宅会社に雇われたりもしたが、55歳の頃、自らの居場所を起業に求めた。
「定年の歳までは残り10年。残りはまだやったことのない社長職をやってみよう。地元の駒ヶ根にも貢献したい。」そう考えた不動産会社の起業だった。
『あるぷす不動産』は覚えやすいネーミングで信州のイメージに合う。駒ケ根のキャッチフレーズも『アルプスが二つ映える街』だし、田舎暮らしにはピッタリなネーミングだと考えた。
田舎暮らし
地方は少子高齢化による人口減少時代となり、団塊世代は大量の定年退職を控えていた。そうした背景から『ふるさと回帰』『田舎暮らし』と言われ始め、地方では移住先・定住先誘致の都市間競争になり始めていた。
田舎暮らしアンケートでは『長野県』が移住先希望の一位になるものの、地元の駒ヶ根市は知名度もマイナーで人口も少ない。
誰もが何をすれば良いのかと手をこまねく中で、彼はリーダーシップを発揮する。
不動産組合の役職に就いていた責任もあり、持ち前の行動力を発揮した。
官民一体
知名度こそ低い駒ヶ根市ではあるが、ロケーションは県下でも1~2位を誇る美しい街だ。
日本初の山岳ロープウェイ「駒ヶ岳ロープウェイ」も有り、かつては「暮らしやすい町全国第1位」にも輝いたことがある。
彼は不動産組合をまとめ、そして駒ヶ根市に働きかけた。
不動産組合と駒ヶ根市役所、そして建設業組合やJA上伊那、銀行、商工会議所など官民が一体となって移住・定住者の受け入れ体制が整った。
市職員と共に東京・名古屋へ田舎暮らしPRにも出かけた。
不動産組合の社長たちも手弁当で広報活動に励んだ。
そうして駒ヶ根市は、官民が一体となった田舎暮らし誘致の先がけとなっていた。
ある年の暮れ、市と不動産業者等による「第一回・移住者交流会」が開催された。
都会から移り住んだ人々による、長野県歌「信濃の国」の大合唱が始まった時には万感の思いがこみ上げた。
変わらぬ精神
「不動産仲介の会社に必要なのは安心と信頼。『あるぷす不動産なら安心して任せられる』それが目指す全て。」と、中城社長は語る。
インターネットの発達は不動産業界をも大きく変えた。お客さんは情報を得やすく、ネット情報で大半がわかる便利な道具だ。だが、信用信頼できる不動産会社かどうかまでは確認ができない。
不動産売買は、取引金額が大きいから不動産会社の責任が大きいという事だけではない。不動産売買は、家族の歴史、思い出、ふるさとそのものだったり、人生そのものだったりを一緒に売買することでもある。その場面を仲介するのも、『信用・信頼』が大切だと考えている。
~出会いに感謝 笑顔に感謝 ありがとう~
これは創業以来のキャッチフレーズだ。時代は変わってもあるぷす不動産の精神は変わらない。