地元産の木材を使うことに疑問の余地など無い
念願のマイホームを建てたい!それが例え35年の住宅ローンと引き換えでも…。
我々の切なる願いを叶えるため、建築会社や住宅メーカーも懸命の努力をしてくれている。建築コストを下げる努力は施工会社の利益追求ばかりとは限らず、施主にとってのメリットにもなる。その結果、木造住宅の約半分以上の材料がアメリカ産松(米松)になった。誤解しないでいただきたいが、外国産材が劣っているわけではない。「コスト安に加え、真っすぐで太い材質は加工もしやすい。結果、狂いも少ないという利点を持ち合わせていて優れた面も多い」とは、唐沢社長の談だ。
しかし唐沢木材工業は地元産の木材を使う事にこだわっている。国産材しかも地元産材を使い続ける理由に「なぜ?」と問いかけても、多くを語らない唐沢社長は即答にも一瞬ためらう。「地元に立派な木があるのだから使いたいだけ」。地元の有効資源を当たり前に使うことに意味など問われても答えようがない。そこは損得や理屈ではないというわけだ。
しかし筆者は気付いている。これはDNAなのだ。
材木商から始まった70年間のDNA
70年前に遡る昭和25年(1950年)。日本は終戦後の5年目を迎えて経済成長に走り始めた。ありとあらゆるモノが生まれ始め、住宅金融公庫がスタートしたのもこの年だ。創業者の祖父は山から木を切り出し、市場へ出荷する木材業「唐澤木材」を興した。当時の荷役を担う力はまだ馬であり、トラックに頼れるようになったのは更に10年後の話だ。
そして祖父から父へ。材木商から建築業も始め、製材工場を建設してきた。昭和55年頃には現在の会社のカタチが確立していた。唐沢靖史社長は3代目となる。
会社の歴史を知ってしまえば「地元にある木材を使う」ことが極めて自然だと理解できる。それは脈々と受け継ぐDNAなのである。「森林大国日本。ここにある資源を有効に使うこと」決してイメージ戦略の一環として「地元産木材にこだわっている」をPRしているわけでもなく、DNAがそうさせているのである。例え建築コストが割高でも、そんなところを妥協する気は今後も無なそうだ。
思いがけない社長交代と苦悩
「いつかは家業を継ぐのだろうが、全く実感はなかった」と言う。それもそのはず、社長への交代劇は父が亡くなるという理由から急に訪れた。
建築畑で働いていたものの、唐沢社長はサラリーマンであった。それが祖父が亡くなって実家の唐沢木材工業に入ることになったのだが、今度は父の病状回復が見込めない段階で急遽引き継いだ社長職であった。父と息子は往々にしてコミュニケーションが悪いことが世間の常だ。唐沢家もそうだったし、父は製材工場が主な働き場所だったのに対して自分は現場が仕事場と、受け持ちも異なった。よりによって経営の根幹でもある「材木の仕入れ」については全くの知識も持ち合わせておらず、そして学ぶ前に先立たれてしまった。
父親が亡くなることと、会社の社長が亡くなることのダブルのダメージはとても大きい。当時41歳の若い社長にとって「しばらくは会社の事までは頭も回らない…」のは当然である。今日の仕事を、明日の現場をこなす毎日が続いた。
からもくの家 karamoku-no-ie
従業員に支えられて諸問題にも慣れ、4年間を経た今では社長業にも安定感が増してきたようだ。今では厳しさと責任感を漂わせる存在感がある。そしていよいよ、大きく会社の舵取りを決断する時を迎えた。会社の目玉となる「当社独自のブランド商品をつくるべきだ!」その想いを具体化させる行動がそれだ。
これからの若い施主になればなるほど、「これください!」が住宅購入の入口になるだろう。購入ベースの「商品」をまず決めて、そこからオプションを追加するしない、追加出来る出来ない、を選択していく購入スタイルに整備しておかなければ、街の建築会社の将来は危ういと多くの人が考えている。
現場を受け持ってきたからこそ、唐沢社長も常々考えてきたそんな想いがある。少しづつ会社の経営の事を考え、他社と照らし合わせながら人の意見も聞き「ブランド構想」の想いを一層強くしたようだ。
そしてブランド名「からもくの家」がスタートを切った。難解な英文字のブランド名を付けて0からスタートするよりも、70年間の社名を親しみやすく「ひらがな」で表示することで継続性を保ちながらのフェイスリフトを選択した。これは正しい判断だったのではないだろうか。そして「自然素材の家」であること=自然素材とは「地元産の木材を使用」することを頑なに維持しながらコストバリューを高めた商品が「からもくの家」である。時代のニーズに応えてはいくが、70年の歴史とDNAは失わないのが「からもく流」である。
毎月の勉強会
住宅建築も令和の時代は新たな時代に入っていく。「坪いくら」とか、そんな単位は若いお客様にとっては無用であろう。
首都圏で「戸建て」を購入するとは、自分が通るローン範囲内で買える「建売り」の購入が一般的である。地方ではまだまだ「注文住宅」が主流であるとはいえ、さほど異なる世界だとも思えない。どちらもロ―ンの範囲内という制約があることには変わりなく、「注文住宅」ではあっても基本の住宅商品をまず選択し(土地の形状に合わせた設計料も含まれている)、後はオプションを追加していく方法がシンプルでありスピーディーだ。
おまけに若い世代は購入するクルマもエコカーであったり、軽自動車で十分と考えるスマート指向を持っている。そんな世代の要求に合わせられる柔軟性が「からもく」にはある。若い世代にとって、誰もが未知の分野である「家づくり」には「勉強会」を提供して参加してもらうことから始めようと決めた。毎月の勉強会は既にスタートをしている。
中学生からバレーボールを始めた唐沢社長は、大人になっても伊那体協に所属してプレ―を続け、ソフトバレーに趣を変えてもなお続けてきたバレーボール愛好家である。バレーボールという競技は、アタッカーのために最高のトスを上げたい一心でコンビネーションをつなぐスポーツだ。家づくりの課程に於いては、不幸な事にお施主さんと施工側がまるでネットを挟んだ相手チームの様に対峙してしまうケースを聞かされることがある。「からもくの家」は唐沢社長をキャプテンとした家づくりチームとして同じコートに立ち、一番最後にはベストなトスをお施主さんに上げてくれる、そんなイメージがある。
text/ Photo Kobayashi